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Author: もあママ

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まん丸お月様

いつも明るく元気で笑っていて、ほんとうの幸いを願い、身を粉にして他者に尽くし、雨ニモマケズ風ニモマケズ・・・私ってそんなママだったかな?と考えた。それは私の中の理想像であって、私は決してそんなママではなかった。

意地っ張りで頑固で好き嫌いが激しく、ニコニコしているのは優しく見せたい為のお店用の表情で、本当に面白いと思う時はガハハと爆笑した。夜のお店独特のさしすせそなんて笑ってしまうくらい滑稽で苦手で、いつも本心が勝手に口から出てしまってた。男のくせにあんまりグズグズ言ってると、「もうっ腹立つわ!正座させるわよ!」なんてね。こんな愛想なしで気分屋のママ、そんなに銀座にはいないです。私は長年宮沢賢治ママを上手く演じてたと思うけど、本当は全然違うってもしかしたら、とっくの遠に、

バレてました?笑

真っ白なバスタオルが何故かグレーに見えるほどずっと泣き続けて、泣いても泣いても終わりがなくてね。頑張ったのにとか、もうこれ以上頑張れないとか、癌が物凄く上の方にある偉いものに思えてきた。出口を探して一生懸命に歩くけど、段々一方通行の細い方に迷い込んだ。

絶望。

そんな時、神戸の叔父からラインが届いた。叔父はアキちゃん(叔父の長女・従姉妹)と私をラインで繋いでやろうとしてくれている様だった。いつだったか、私より幾つも年下のアキちゃんが癌になって辛がっていると叔父から聞いた事を思い出した。叔父からショップまで行って手続きしてもらってきたとラインが届き、すがる思いで私はアキちゃんに声を掛けた。そしてやっとアキちゃんと話せた。

アキちゃんは私と同じ病気で抗がん剤治療も受けていた。告知、手術、抗がん剤治療と辛かった経験談を元にてきぱきとアドバイスをしてくれた。私はアキちゃんの話を必死でメモしながら、こんな事を聞いてみた。「アキちゃん、明るいよね。大変な病気をしたのに。どうやってそのモチベーションを?」

「抗がん剤治療ってこんなに大変なんやて思ってな。こんなに大変なんやから癌細胞も苦しんどるやろと。」

「親より先に私が死んで悲しませるわけにはいかん思うてな。」

「お姉ちゃん。私、頑張ったよ。よう頑張ったと思うわ。」

手を伸ばした先に薄らと光が見えた気がした。いつか私も言いたい。

「私、頑張った。よく頑張ったと思う。」と。

『銀座のトリルからのお切らせ』

⭐︎8月10日(木)まで通常営業

⭐︎8月11日(金)〜20日(日)夏季休業

⭐︎8月21日(月)〜

大変ご迷惑をお掛けしますが、都合により当分の間、完全ご予約制での営業とさせて頂きます。ご予約状況、営業の有無につきましては事前に店舗へお電話にてお問い合わせ下さいます様、お願い致します。

病室にて

昨日、退院後初めて病院に行ってきました。丁度お昼過ぎで車の中からジリジリと焼け付くビルや歩行者をぼんやり見ているだけで、目がぐるぐる回り頭がくらくらしてきました。ふとこんな炎天下に球児たちは長時間熱戦を繰り広げるんだなぁと、大丈夫なのかなとちょっと心配になりました。余計なお世話ですね。笑

先のブログで少し触れたのですが、癌は手術して病理検査を行って初めて実際の病状やそれに伴うステージ、術後の治療法が確定するのだそうです。どの癌もそうなのかは知りませんが。私は術前の検査は何の為なんだろう?それだと先生が告知するステージは正確ではなく多分そうなんじゃないかなって事なのかな?それならどうして告知するんだろうと不思議で仕方ありませんでした。不思議だと思いながら先生に、「ステージ1ではないか、転移はしていなさそうだ、手術してみないとわかりませんが。」と言われ私は物凄く喜んでいました。希望を持ちたかったし安心したかったのだと思います。何度も最終的には手術して病理検査しないとわからないと言われたのに。

そして昨日、聞いた病理検査の結果は私にとって最悪なものでした。手術で目視出来る癌は全て取りきれており、術後の経過も良好でした。でも顕微鏡で調べたら私のリンパ管には既に癌細胞があり転移陽性でした。それによりステージも1から一気に3Cになり、今月末から来春にかけて抗がん剤治療を開始する事になりました。説明の途中で先生が何度か、「ここまでで何か質問はありますか?」と聞いてくれたのですが私は、「何もわかりません。」

先生の説明が終わり別室で、抗がん剤治療アレコレについて看護師さんから説明を受けました。看護師さんは私の顔を見てヤバいと思ったのだと思います。心配そうに何か話しかけてくれました。何を話しかけてくれたのか、全く覚えていません。私が、「大丈夫です。」と答えると、「大丈夫って言わなくても大丈夫ですよ。」って。優しい看護師さんなのだと思います。でも私はこの病気になってから、いつも大丈夫だと思う事にしていました。『私は強いから大丈夫、沢山の人が同じ病気を乗り越えてる。だから私も大丈夫。』と。そう思う事で1度も崩れずに怖がらずに前が向けていたのです。それがお腹の傷も治りきらないうちの2度目の厳しい告知と看護師さんの言葉・・・本当は私はわかっていたんです。こんな時、女性は思い切り泣くんだろうなぁ。泣いて泣いて落ち込んで、そこから這い上がって来ないと長い病との闘いに最後まで頑張れないんだろうという事は。

昨日は帰宅してから初めてバスタオルを抱えて、「こんなに頑張ってきたのに。」と声を出して泣きました。泣いても泣いても涙が止まらず、出勤は断念しました。頑張れば何とかなった今までだったのに、頑張っても頑張ってもどうにもならない今がただ悔しくて泣きました。いくら考えても立ち直りまた前を向くその方法が、私にはわかりません。私はもうダメなんでしょうか。

唯一分かったのは私は大丈夫じゃないってこと。

夜景

蝉の鳴き声や夏の夜空を彩る大輪の花火が夏の盛りを感じさせますが、早いもので暦の上ではそろそろ立秋。日を追うごとに空や雲の様子が秋を匂わせ始めています。皆様、お元気でお過ごしでしょうか。

退院して5日経ちました。

正直言うと退院は嬉しさ半分、不安半分でした。1番の不安はベッド問題でした。病院のベッドはリクライニングで両サイドに柵がついていて、お腹に全く力の入らない私でも電動で背もたれを直角にしてから足を床に下ろし、ゆっくりですが柵を持って立ち上がる事が出来ました。横になる時はその逆をすれば、傷口の痛みも負担もなく自然に眠る体勢になれました。時々、横になってから足のつま先の向こうの方に掛け布団がある事に気づき、何度かリベンジしましたが。でも自宅の私のベッドはフレームがなく、何も持たずに腹筋に力を入れてエイヤッ!と起き上がるしかありません。

退院前夜にそれに気づき慌ててラインで、「悪いけどホームセンターに行って天井から床までの突っ張り棒を一本買って来てくれない?両手で握れる太さで体重かけても倒れない頑丈な物をお願い。それ持って何とか起き上がるから。」

帰宅後はベッドサイドに取り付けてもらったそれにしがみつき一気に立ち上がっているのですが、この荒治療が思った以上に回復効果があるようで・・・。痛くても怖くても起き上がるにはそうするしかないわけですから、必死で頑張るしかないわけです。

日中にマンションの1階を歩いていたら夏休みのチビっこギャングの鬼ごっこに巻き込まれ、もうダメだと絶望したことがありました。それ以来、皆さんが寝静まった深夜にこっそり歩行訓練をしています。帰宅直後はお腹を庇って前屈みになり、痛みで歩幅も速度も何とも情けないものでした。私はなんて弱虫なんだ、これではいつまで経っても復帰出来ないと焦って涙がチョチョ切れる夜もありました。でも最近は視線や顎を上げて歩けるようになり、少し速度も速くなった気がします。

つくづく人間には支えと励みと使命が必要なのだと思います。そして特に私のように甘い方に緩い方に行きたがる人間には、絶対的試練が必須です。

さてお知らせしていた臨時休業が本日で終了致しました。

銀座のトリルは明日8月2日(水曜日)午後7時〜通常営業を再開致します。

飲酒やカラオケはマスターに任せて、私も出来る限り出勤しようと考えています。

どうぞ皆様、これまで同様お引き立てくださいますようお願い申し上げます。

皆様にお会い出来ることを楽しみに待っています。

病室にて

花火が夜空を彩る頃となりましたが、皆様ご機嫌いかがでしょうか

昨日主治医より許可を頂き本日7月27日(木曜日)退院の運びとなりました。2週間ほどの入院期間と聞いておりましたので18日の手術日から今日で何日目?と毎日カレンダーを指差し数えておりましたが、急に明日退院と知らされ今朝は5時前から起きてゴソゴソと病室の清掃と荷物の整理をしておりました。😆

私は超のつく神経質でどなたとも同室不可で、持ち出し覚悟の個室での10日間でした。毎食時間通りにお食事がテーブルに置いてあり、食事を済ませ歩行訓練を兼ねて配膳室にトレイを戻している間に、おばさん2名がお掃除とシーツ交換を手際良く手分けしてやってくれました。最後にパリッとプレスされたシーツの上に真四角に畳まれた今日のパジャマとタオルが2枚ずつセットしてありました。前半は痛みで気絶しているか意識が朦朧とした余裕のない状態だったので、毎日そんな風にしてくださっていたことに気づいたのはつい4日ほど前の事です。ありがとうございますがたった4回しか言えず、申し訳ない気持ちになりました。

小学2年生で扁桃腺の手術をしました。とても痛い手術で術後は何も飲み込めず辛かった記憶があります。入院はたった5日間だったと思いますが、母が来てくれるのを毎日心待ちにしていてドアーが開き母の顔が見えると涙が出ました。

30代の時は胆嚢炎になり、腹腔鏡手術をしました。死ぬかというほどの激痛が背中に走り病院に駆け込むと直ぐに手術となり入院はたった3泊でした。お腹を切るわけじゃないし1人で行ってくると出掛けたのに、手術が終わり病室に戻ると姉が待っていてくれて嬉しかった事を覚えています。

そして今回、私にとっては初の開腹手術、然も7時間の大手術でしたが、コロナ禍ということで面会は禁止、勿論付き添いも禁止でした。術後、病室に戻る一瞬だけ顔が見れると看護師さんが教えて下さったそうで、家族が近づくと私は、「これでやっと泣ける。」と言ってポロポロ泣いたそうです。私が?本当でしょうか?!全く記憶にございません。。

大きく開腹した為にどう工夫してもお腹に力が入らず、考えて考えて1センチ単位でそろりそろりと体を動かすのにとても苦労しました。やっとの思いで寝転んでホッとしたら掛け布団がつま先の向こうの方にあったり、枕が中途半端にお尻の下にあったりして。。情けなくて悔しくて天を仰いで喚こうと何度思ったことか知れません。こんな時に家族がいて顔を覗き込んでくれていたら・・・。早く元気になるんだと前向きに頑張ってやっとの思いで1日を終えたのに、人間ってこんなしょーもないことで心がボキボキに折れるものなんですね。

お話ししたい事は山のようにありますが、先ずはお世話になった医療関係者の皆様に、お礼を申し上げます。ありがとうございました。

そしてご心配を頂き温かい励ましを下さった皆様に心から感謝と、当初の長時間の手術を乗り切り無事に帰宅する目標をクリア出来ました事をご報告致します。ありがとうございました。

今後も体力回復に努め、1日も早く元気になった姿を見て頂けるよう頑張り続けるつもりです。

熱中症アラートが何度も発令されています。皆様も十分な水分と睡眠を摂り呉々もご無理なさいませんようお気をつけてお過ごし下さいませ。

葉山にてチェルちゃんと

『いつも明るくサバサバしたママでいたい』

長年そう思ってやってきたので、病気になった事は皆様には本当は秘密にしておきたかったです。

入院や手術の日程が決まった翌日にマスターに自宅まで来てもらい家族を交え、今後お店の営業はどうするか、お客様に何をどうお知らせすべきかについて話し合いました。

「店舗のリフォームって事にしたらどうかな?例えば地中の水道管工事とか、それなら入院の間だけ2週間臨時休業でも変じゃないでしょ。」と私。

し〜ん・・・

術後直ぐに社会復帰出来ればいいけど具合の良くない日もあるかもしれないよとか、もし抗がん剤治療があればキツくて仕事にならないんじゃないかとか、内緒にしとくとママが後々辛くなるんじゃないかとかetc・・・色んな意見がありました。私は話し合いの最中に何度も、お笑い芸人さんが問題を起こすと何を言ってももう笑えないと誰かが言っていたのを思い出して、私ももう笑ってもらえなくなるんじゃないかと心配ばかりしていました。

それより何より公表すれば皆様にご心配をおかけしてしまうだろう、きっと皆様は励ましのメールを下さるだろう、私の様なものにそんな事で貴重なお時間を使わせてしまう、それが申し訳なくて中々公表に踏み切れませんでした。

それでも折角お店までいらして下さったのに入り口に『臨時休業のお知らせ』の張り紙1枚では、もっとご迷惑をおかけする事になる。そう考えて苦渋の選択で最終決定を行いました。

公表の当夜から沢山の激励のメールを頂きました。中にはお会いしたことのない方もいらして、こんな方も私のブログを読んでいて下さっていたのだと驚きました。どなたのメールも温かく力強く、個性的でした。😆

お一人お一人のお顔やお声や会話を思い浮かべながら、私は絶対にこの病気を克服して今より元気に明るくなり、1日も早く復活して笑いを取るぞ〜と心に誓いました。

皆様、本当に本当にありがとうございました。

皆様の励ましを胸に、またお会いできる日を楽しみに頑張ります。